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2018.08.27 Monday

写真家の写真

 

良寛は「好まぬものが三つある」とて、歌詠みの歌と書家の書と料理屋の料理とを挙げている。全くその通りであって、その通りその通りと、なんべんでも声を大にしたい。料理人の料理や、書家の書や、画家の絵というものに、大したもののないことは、我々の日ごろ切実に感じているところである。

しからばこれは何がためであろうか。

良寛の言うのは、料理人の料理とか書家の書とかいうようなものが、いずれもヨソユキの虚飾そのものであって、真実がないから行かんと言っているに違いない。つまり作りものはいけないというのだ。

だが、私の思うには、家庭料理をそのまま料理屋の料理にすることができるか、と言えば、それはできない、客は来ないからだ。明らかに家庭料理と料理屋の料理とにはなんとも仕方のない区別がある。

その区別はなにか。家庭料理は、いわば本当の料理の真心であって、料理屋の料理はこれを美化し、形式化したもので虚飾で騙しているからだ。例えていうならば、家庭料理は料理というものにおける真実の人生であり、料理屋の料理は見掛けだけの芝居だということである。ー北大路魯山人「料理王国」よりー

 

全く奥の深い話である。このあと芝居としての料理の話は本質とはなにかと言う話に繋がるのだが、はたして写真はどうだろうか。

最近、ぼくはいつもこのことを考えている。

この良寛に当てはめるなら、写真家の写真ほどつまらぬものはない。ということになる。

ぼくは最近、どんな写真家の写真を観ても少しも感動しない。むしろインスタグラムなどの写真をつらつらと観ている方がワクワクする。写真も、料理家の料理よりも家庭料理に真心があるように、写真家の写真よりも普通に誰かが撮った写真に真実があるように感じる。だが、ならば普通にとられた多くの写真や作品が、大いなる感動の作品として展示できるのかと言うと、そうでもない。家庭料理が料理屋の料理にならないのと似ている。

なぜだろう。

そこには、苦悩や試練、反省や修練がないからに他ならない。

写真を芸術作品として定着するならば、真実の上に一層洗練された調いを纏い、より個人的な美意識に満たされているべきではないだろうか。

昨日のブログで、ぼくは自分らしく自然であることを望み、その評価や比較には興味がないと書いた。それは本心だ。

しかし、それとは別に自分自身の修練は続いている。

いま、時代の価値観は大きく変わりつつある。働くことや生きることに対する価値観がだ。人と比較し、人を超え、栄誉やお金を手にすることに意味が薄れ、どう自分の人生を豊かにするか、自分の感覚をどう認めるかに向かっていると感じている。

写真の未来もそうではないだろうか。

自分の美意識をどこまで信じて修練することができるか。楽しむことができるか。基本はまず自分自身の人生観をどうシフトするかにかかっている気もする。

普通に撮られた写真はただの真実写真だが、芸術写真ではない。ならば、技術とセンスで撮られた写真家の写真が芸術写真かと言えばそれも大いに違う。その間にあるもの、それは個人の誠実な写真への想いと作品の価値を永遠に自由に定義することのできる深い愛情ではないだろうか。それはある時はこだわりという言葉になったり、偏執という言葉になったりもするが、ぼくの場合は大いに普通であるということに行き着くといいと思っている。

そして、未来にそう不安は抱いてはいない。むしろこれからの世界が楽しみである。

 

 

 

 

 

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