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2018.08.26 Sunday

生命の意識が写真になる

 

自分というものは、どこまでも自分であって、こればかりはどうにも変えることはできないようだ。

よく、自分自身を変えると言うが、ある程度の意識を変える、考え方の道筋や物事の捉え方を思考レベルで変えることが限界で、本当の自分自身を根本から変えることなどは、おそらく死んでもできないことではないだろうか。

ぼくなどは、毎日の生活の中でことごとく自分に呆れ、情けなくなることが数回はあるがまったく変えることはできない。

特に、カメラを持っているときに。

なぜか?

答えは簡単で、自分自身が自分を驚かすような写真がたったの一枚も撮れないからだ。

何を撮ってもいつも同じ。新しさなど微塵もなく、芸術的と言う表現には程遠く、仕事としての写真はたくさんの縛りがあるから

そこに逃げ道を見いだせるが、作品となるとそれもできず、しまいにはカメラなど持ち歩きたくなくなる。

写真とはその人の感情の昂まりや迸りが生み出すべきだと常々思っているのだが、それがぼくには全くない。

かと言って、冷静なコンセプトによる現代との対比や調和もない。すなわちアート性がない。

今までにもなんども自分自身が変わることで、なにか新しい感情とめぐりあえるのかと思ってみたが、どうにもそれは無理な願いのようだ。

実は、こんな悩みを抱えながらも、持ち前の楽天的思考から、自分は何者なのか?どう言う感性の持ち主なのか?というような疑問に悩んだことがないのだから無理もないのだが。

正直に白状すれば、この数年で幾度も写真家なんて向いていないと思うことが多くある。自分の暗室と倉庫にある大量のネガやデーター、プリント、一応額装して作品らしい姿の写真を全て捨ててしまったらなんて楽だろうと思うことがある。現に、今年の春にはかなりのネガとプリントを廃棄した。

ぼくは生きろと言われて生きているのではなく、死ぬことができないから、生きているしかないということなのだろうか。まあそれも間違いではない。死んでしまおうと思ったことはないが、やはり死には幾ばくかの不安がある。恐怖もある。

だが、日頃口先では明日は死んでしまうかもしれないから今日が全ての生き方を!と言っているが、そんな必死な生き方もしてはいない。いつも明日の存在に甘えている。

ならば、どうして自分を変えてまで新しい感覚が欲しいのだろう。ただ淡々と生きていればいいではないか。

その訳がなんとなく最近になって理解できつつある。

この世に生命として生まれてきて、自分の意識というものを自覚したときに、どうして意識というものがあるのかを知るための命だと思う。もっとわかりやすく言えば、この国に地球に生まれたということなどではなく、宇宙の中で生命という「意識の存在」として自分がいるということに対する認識を持つことだと思いつつある。

(ちなみに、生命と命は違う。命とはその生きる意識を持っての存在だろう)

おそらくは、その延長線上にぼくの写真や生活があり、全てを結果として受け入れる覚悟がまだできていないと思うのだ。

だから、写真ですら何かに対しての対比論で自分が評価を下してしまっている。

だが、写真というものがカメラという道具により意識の延長線で成り立つのであれば、そこに「対比する」という行為はナンセンスであり、そのままが自分であるということを強く認識する力が必要だと考えている。

自分が強い意識でいるときは、気持ちが解放されて、より自分が楽になる。

そして自分を変えたいなどと思うことは全くなく、そのままの自分でいいという気持ちを持てることが、幸せなのだとおもう。

写真は素直に意のままに撮り、自分に関わってくださる全ての人や自然に感謝し、万物の中にある意識に思いを馳せる行為がなんと気持ちを落ち着かせることかと、しみじみ思うことがあるのである。

なんだか、とりとめもなく抽象的なブログになってしまったが、要は、自分の命を意識し大きく受け入れることが、ぼくの写真の全てになればそれでいいと、至極単純に思うのである。たとえそれが写真芸術として全く成立しなくてもそんことに興味はない。

ぼくはそんな写真でいい。

 

 

 

 

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