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2017.07.10 Monday

日々の記憶106

 

カテゴライズすことは時には必要だが、ある時はそれがとても邪魔なものになることがある。

特に写真というアートに関しては顕著で、具体的に言うならば、写真と美術作品の線引きがとても悩ましい。

もともと写真とは技術のことだ。風景や人などを見たままに写し撮るという技術。それを一瞬にしてやってしまう。

モノクロームのネガから始まった写真は、やがてプリントという技術を身につけ、そして色を写し撮ることも可能とした。

現代では、フィルムを使わずしてかなりの暗い状況でも、ある意味人の視力を大きく超えた映像をも。それこそ、そうのようなデジタル技術に進化した写真はもはやそれ自体が大きな科学という名のアートかもしれない。

そのような時代において写るということには、もはや価値を見出すことができず、何をどういった意味合いで写すかというところに比重を置かざるをえなくなったのが現代写真アートだ。コンセプトありきの作品は、現代アートの領域に進出して、独特のカテゴリーを形成する。

僕は、ただただ写真が好きでこの世界に足を踏み入れたのだが、よくよく客観的に自分の写真を分析すると、大きな流れの変化を感じている。それは、絶えずカメラを持ち歩いてスナップしていた写真らしき写真はだんだんと枚数を減らし、今はテーマごとにカメラを選び、内容に沿った撮影に出かける。それは、光をとらえるという意味においては紛れもなく写真なのだが、今の僕にとっては少し意味合いが違っている。叙情的な感覚を排除して、風景や人、その環境を複写するという感覚だ。だが記録でもない。

ストーリーがあるかといえばそれも少し違う。そこにたまたまレンズを向けたが故に写ってしまうこと。ただ大前提としての大きなコンゼプトは曲げることはないが、それをできる限り美術的な意味合いで美しく定着しなくてはならない。印画紙としての存在はあくまでも存在というアートでなくてはダメだと思っている。

今はデジタルで撮影すれば、ほぼインクジェットプリントだ。昔は美術館などに作品を収蔵するときは、インクジェットは認められなかったが、今は耐久性の面において大丈夫になっている。しかし、フィルムで撮影した作品のアナログでのプリントの存在感にはまだ到底及ばないと感じる。せめて、デジタルからでもデジタルネガやデジタルCプリントにすれば、やはり印画紙としての存在感は得られる。

 

そうやって紡ぎだした写真は一冊の本に集められて、並行して存在できるならば初めて命を得ることになる気がする。そんな写真を作品と呼んでみたい。

 

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